ペプチ

コント等をしています。(Twitter: @pepuchi_yan)

全然関係ない男が出産に立ち会ってくる話を書きました

伊藤真紀子はこの日、人生で最も苦しく、そして人生で最も幸福な日を迎えていた。茂雄は、夫として何もできない自分にもどかしさを感じながらも、今はただ、愛する妻の手を取って励まし、二人の愛の証が無事に誕生してくれることを願っていた。

沼尻は、真紀子の手を握る茂雄の手の上に、自分の手を重ね、「大丈夫です。絶対に大丈夫です。」とだけつぶやいた。にっこりと笑いながら妻と自分を交互に見つめてくる沼尻を見ながら、茂雄は、「誰だこいつ」と思っていた。誰も違和感を抱いていない様子を見ると、病院の関係者か誰かなのだろうか。仮に病院の関係者であったとして、夫婦が手を握り合っているところに重ねてくるのはどうなんだと茂雄は思っていた。

 

真紀子が分娩室に運ばれてから一時間ほど経った頃、元気な女の子の泣き声が院内に響き渡った。沼尻は助産師から赤ん坊を預かり、茂雄と真紀子に見えるように抱いてみせた。真紀子は感極まって涙を流し、たったいま生まれてきたばかりの赤ん坊の顔を幸せそうに見つめていた。茂雄は、この上ない多幸感を抱きつつも、当たり前のように自分たちよりも先に我が子を抱いているこの男に対して、かつて味わったことのない謎の感情を抱いていた。

「申し遅れました。私、沼尻鉄平と申します。」

赤ん坊をじっと見つめてあやしつけながら、沼尻がそう口を開いた。茂雄は、そんなことが聞きたいのではないと思いながらも、では自分はこの男に何を問いたいのか、よく分からないでいた。

 

「名前、なんというんです?」

分娩室に響き渡る母と娘の泣き声を制すように、沼尻が言った。茂雄が聞き返そうと身を乗り出すと、男は笑顔で繰り返した。

「名前です。この子の。もう決めてあるんでしょう?」

「さちえです。幸せに恵まれると書いて、幸恵という名前です。」

少し恥ずかしそうに笑いながら、真紀子が答えた。沼尻は一度真紀子のほうに笑顔を向け、「そうですか。」と言った。再び赤ん坊に目をやった彼は、はっきりと聞き取れる声量で、「あまりいい名前ではないな」とつぶやいた。茂雄が怪訝な顔で彼を見たが、沼尻はその視線に気づいていないかのような素振りで赤ん坊をあやし続けるのだった。沼尻は、聞こえない程度の声量で「あかねちゃん、パパとママの顔みえまちゅか?」と言って伊藤夫妻のほうに赤子の顔を向けた。茂雄が「幸恵です。」と語気を強めて訂正した。沼尻は、茂雄の目を、じっと、見つめ、笑顔のまま、首を横に何度か振った。めちゃめちゃ腹の立つ仕草だな、と茂雄は思った。

 

「とりあえず、子どもを返してください。」

しびれを切らした茂雄は、我が子を抱く男に歩み寄りながらこう言った。沼尻は茂雄に赤ん坊を預けたあとも、ずっと笑顔のままだった。何を言われても表情を崩さない沼尻に対して苛立ちを覚えた茂雄は、敵意をあらわにして、

「あなた、誰なんですか?病院の方ですか?」

と言い放った。沼尻は、クスリと鼻で笑い、窓際に向かって歩き始めた。

分娩室に少々の沈黙が訪れた。コツコツと、沼尻の足音だけが、こだましていた。

窓に辿り着いた沼尻は、ブラインド越しに外を見つめながら、少し黙っていた。そして、覚悟を決めたようにため息をついたかと思うと、

「私は、川尻です。」

と言った。

茂雄は、全く意味が分からなかった。質問に対して答えになっていないことよりも、つい先程、沼尻だと自己紹介してきた男が、川尻だと名乗ってくる意味が、全く分からなかった。なぜ川から沼にランクダウンさせていたのか、怖くて仕方がなかった。そして、沼の尻ってなんか気持ちの悪い苗字だなとも思った。

 

「どういう意味でしょうか?」

恐怖心と戦うように、茂雄は追って質問をした。川尻は、こちらを振り返り笑顔で答えた。

「私は沼尻ではないということです。もっと言えば、私の名前には何の意味もないということです。」

若干の思考の間が空いたあと、茂雄は冷静にこう言った。

「いや、あなた、意味深なふうに言ってますけど、ただ嘘ついてただけですよね?誰なんですかあなた?あなたの身分を聞いているんですよ。」

川尻は、何食わぬ表情で言った。

「私は、さきほどそこを通りがかった者です」

「は…?いや、どうしてそんな方が、私達の出産に立ち会っているんですか?」

「いけませんか?そしてそれは、どうして?」

茂雄は、一瞬返答に困った。関係のない人間が自分たち夫婦の出産に立ち会ってくることなど、想像もしていなかったので、なぜそれがいけないのか、とっさに聞かれて、どう答えていいのか一瞬戸惑ってしまった。茂雄の一瞬のスキを見逃さなかった川尻は、追い打ちをかけるように口を開いた。

「あなたには、のりこちゃんのパパを名乗る資格はない。」

茂雄が「幸恵です」と訂正すると、川尻は茂雄を見つめながら両耳を塞ぐ仕草をして、急いで分娩室から出て行った。

 

伊藤夫妻は、その後数十年、特に何事も無く幸せに暮らした。